Senta.

ダイエットを監視されたり阻止されたり、王子捕獲に励んだり、なにかと慌しいさいこちゃんの日記です。

2017-10

号外 家康死去

今日は真面目に
家康が日光に祀られた件を考えていきたいと思います

   もちろん 今までも真面目にやってましたが


家康は1616年駿河城にて亡くなります
 死因は二代目茶屋四郎次郎の献上した鯛の天麩羅の食べすぎだとか
 実は胃がんだったとか言われていますが
 その真否は今はどうでもいいので
 お好きな説を信じていただくとして

そのときの家康の遺言

  一両日以前、本上州、南光坊、拙老、御前ヘ被為召、被仰置候ハバ、
  御体は久能へ納、御葬礼をハ増上寺にて申付、
  御位牌をは三州之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、
  勧請し候へ、八州之鎮守ニ可被為成との御意候


     入力してても自分で何打ってんのかわかんないや 

簡単に言えば

  自分が死んだら 遺骸は久能山に納めて神に祀り
  葬儀は増上寺で行い 三河の大樹寺に位牌を立て
  一周忌が過ぎたら日光に小さなお堂を建てて勧請して欲しい
  関東八州の神となろう



              ・・・ということらしい


   家康の遺言



  誕生 東照大権現  


古来より日本社会は 
天照大神を祖先に持つ皇室中心のものであった
だから家康は皇室と同等の力を徳川が得るために
自ら江戸を守る祖先神となる必用があった

久能山も三河も家康縁の地であり
そこへ一旦葬ったり、位牌を立てるということは
家康を神が為るために自分のルーツを辿る儀式であり
西国鎮護のための一種の霊的マーキングと思われる


日光山は古代から関東随一の山岳信仰の霊場で
家康が個人的に尊敬していた源頼朝も厚く信仰していた
天海が日光山の貫主であった
などなど 多くの理由が考えられるけれど
私的には 江戸の真北に位置する 
             という理由は絶対に外せない


そして父家康と協力しながら
江戸幕府を築いてきた二代将軍秀忠は
父の遺言通り

   父が偽裏鬼門の守護として移転した増上寺で葬儀を行い
   一年後 日光山に小さなお堂を建てて家康を祀った

     今の豪華絢爛な日光東照宮からは想像もつかない
     和様を基調とした彫刻や彩色も少ない
     実に質素なものだったらしい


こうして家康は 東照大権現 という神になる

   東照宮とは
   天照に対抗するものであり 東 ( 江戸 ) を照らす宮のこと


もしかして江戸の真北に位置する日光山に祀るというのは
北極星を示しているのではないだろうか

   古くから天台宗の霊場であった日光の地で
   北斗信仰を説く天台宗の僧侶天海の手によって

   日光に現存する家康像の左右には山王七神、摩多羅神が描かれ
   左右の神の上部には北斗七星が描かれている
  
     輪王寺の摩多羅神 日光輪王寺の 『 摩多羅神像 』
 

同じように 
  家康という名の北極星には 
          江戸の北斗七星
   

       この北斗七星は1612年首塚から神田神社を遷移し
       家康が死去した1616年
       津久土神社を八幡宮の隣りに遷移したことにより完成する


  誰かが亡くなったとき
  「 お星様になった 」 っていうけど
  家康はホントにお星様になって 江戸を守り続けていたんですね 

 

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    東照宮って
    東を照らす宮だけど 東の天照大神でもある

    東照宮って名を持つことにより
    北極星としてのみならず 太陽としても祀られてるのかな

    けっこう欲張りだね (笑)

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コメント

家康の死因は・・・
結構長生きしたと思いますので・・
そろそろだったのでは

日光の家康の墓。
星のような形をしていたような記憶が。。
違ったかな?

どっちにしろ、家康って
政策云々は別にして
戦乱の世を上手く鎮めましたよね。

今の日本にも必要なのかも?

家康さん 亡くなった後も 慕って欲しかった欲張りさんなのかも

人間忘れられるのが 一番辛いって言うから

余計に 神という形で残り 祀られたかったんでしょうかね

日光東照宮 一度だけ行ったことあるんですよ

眠り猫観たくて(笑)

江戸時代って今の日本にストレートにつながってる(影響している)部分が大きいので、家康さんはやっぱり歴史的意味での功罪が両面とも大きいですよね~☆

250年の平和の礎を築いた功績は十分まつられるに値するものだと思いますけど、『江戸』以後と以前ではまるで違う民族かと思うほどの違いを見つける時があるじゃないですか。

今回の震災で外国に賞賛された、日本人が秩序や自己を律する習性を身につけたのは江戸時代の統治の成果だと思います。

一面、海に乗り出し各地に日本人町つくっていった豊臣期までの、大らかでのびのびとした野生のような面は影を潜めてしまったように思うのは三代目だけでしょうか?^^;;

いずれにしても神や星になった後も250年にわたり江戸を見守り続けていた家康さんは、根性ありますね~☆^^

実家からは、日帰りで行けたので何度か
東照宮に行きました。
昔は質素だったんですね・・・
神や星なら質素な方が霊験あらたかかな?
質素だと観光客むけではないか(-_-;)
眠り猫・見ざる・言わざる・聞かざる
の彫りものかわいいです^^

簡単に一言結論めいた事を言えば
嘘つき天海は、江戸の地に、平安京に負けない「永遠の都」を山王一実神道の呪力によって呪術的につくり上げるのが大仕事の一つだったのですよね^_^;
この呪術的な手法こそが、天海独自の嘘くさい所以だったのでは?

呪術的な手法(家康を東の天照大神とし、遠く京都の天皇と同格にまでにする…)考えたら無理があり過ぎるね(^0_0^)

よっしー sama

結構歳だったしね
まぁ 寿命もあったのかもしれませんね
天海があまりにも長生きしすぎたせいで
あんまり気にならなかったけど
73まで生きたら当時なら長生きかもしれませんね

お墓の形 どんなかったっけ?
なんか六角形みたいな

私の見解では秀吉と違って
家康の天下統一は戦乱の世に終止符を打つのが目的だったような気がします
今の日本には大いに必要ですよね(○´-ェ-)

よっちママ sama

新しい説ですね
実は家康 かまってチャン。(-∀-。)

なかなか面白いww
家康の存在を覚えてて欲しかったのか
守りたいっていう家康の気持ちを覚えてて欲しかったのか
どちらかは分かんないけど
思惑通りみ~んな家やすのことちゃんと忘れてないですよね

眠り猫 あの表情なんとも言えずいいですよね(o´▽`)

三代目 sama

実は室町以前と江戸開幕の間で
信長の作った城下町の機能ってのも素晴しかったんですけど
まだ戦乱の世だったから全国的なものじゃなかったんですよね
平和な世の中が続かないと文化も育たないから
幕府を開いて統制し基盤を作った家康の功績は大きいですね

日本の文化は秩序と思いやりの文化ですからね
人を思いやるにはまず自己を律することも必要だし

豊臣の朝鮮出兵は武士のリストラ対策でもあったんだけど
下手に海外へ出兵すると国自体を危険に晒しかねませんからね
鎖国は家光の代以降だから家康は関係ないけど
直接海外と関わらずワンクッション入れることによって
他国とのトラブルも回避できるわけだから
安全と言えば安全だったんでしょうね

でも家康 今もホントは見守りたいのかもしれませんよ(・ω・)ゞ゚

Rin さま

良いですね~日帰りできるなんて
宇都宮の餃子も食べて帰れますよね.+。(*-ω-)(-ω-*)゚

家康はどうして立派な社殿を望まなかったんでしょうね
とにかく勉強家だったから
建築の勉強もしてたとは思うけど
秀忠も努力家だから勉強してたと思うけど
外観的な象徴はよかったんですかね~

たしかに観光的には 今の東照宮最高ですね
建築家的には賛否両論だけど
当時の最高の建築家と絵師によって作られたものだから
それだけでも十分価値があります

猫も猿も 普通に見ても可愛いですよね~

ケン sama

いやぁケンsan
簡単に一言で言っちゃえば
天海は全て嘘くさいですよ(笑)

平安京に負けない「永遠の都」を呪術的に作り上げるには
平安京と同じ作り方ではまだ足りないですからね
だから天皇と同格ではまだダメなんですよ
  天照は太陽だけで 月の世界は月讀って分かれてるけど
  家康は星でありながら太陽なんですもん
  考えてみたら無茶苦茶でしょ

それにはあの手この手で何重にも呪術を施す必要がある
もう何がなんだか・・・ってくらい

なのにそんな胡散臭さで 「 永遠の都 」 を作り上げた天海
恐るべし・・・

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